金刀比羅神社/こんぴら神社/徳島阿南

金刀比羅神社由緒略記


金刀比羅神社は、松琴山山頂に祀る、海のしずめの古社である。元禄九年の棟札あるも古文書によると、現在の社殿は享保元年の創建である。
本殿は流れ造り、幣拝殿は、入千鳥破風の入母屋造りで、三ツ斗組手法を取り入れた変形権現造りである。

特に、優美な桃山時代の名残りをとどめた向拝の蔭の虹梁をささえている、伝説の鬼面童子の大瓶束は傑作である。総ケヤキ材のためか創建当時そのままの面影を残した県下最古の神社建築である。調査に来社した、元京都大学・村田教授は神社建築としては異例の寺院建築様式をもった例をみない珍しい建築だということである。古文書によると、下福井在、七郎兵衛なる住人、元禄二年、十六歳のときより、享保元年まで讃州金刀比羅大権現へ月詣せりと、人呼んで「こんぴら七郎兵衛」と愛称せしほどなり・・・・と。
その七郎兵衛、満願の日、別当金光院にて、かつての(崇徳上皇)愛用の硯石を賜る。神社の起源はその由緒にはじまるものである。以上の伝記は大正十三年、神社関係者、郷土史家によって七郎兵衛の生家の破れ古びた襖の下張りから発見されたものである。

三田華子著「阿波狸列伝」には「風光明眉・阿波松島と言われる橘湾の入江の奥下福井在。福井川の清流がそうそうと音をたてて翠らんの影を洗い、したたる緑の松ふく風は琴を弾じて千年の昔を語る静寂境」参詣路は石の鳥居をぬけると、左にしんしんと生い茂る森林立、右は猛宗竹の薮がつづくつづら折の坂道と記されている。社宝古文書一巻、崇徳上皇愛用の硯、「博学狸こんぴら三本足狸」の伝説あり。
「松風やたがなつけしそ松琴山」

金刀比羅神社社務所
宮司 森 茂丸
〒779-1620
阿南市福井町土佐谷三番地
Tel/Fax(0884)34-2733
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境内に目の守護神後世神社がある。
後世神社略記
後世山は土佐の領主長宗我部盛親公夫人を奉葬した霊山である。
元和元年5月5日、大阪城は落城─豊臣方に味方した盛親公は5月15日、五月雨けむる京都六条河原で斬られることになるが、これが後世神社哀史の発端である。

社伝によると国元土佐で夫人がこの悲報を風の便りに聞き知ったのは秋も中葉の旧9月である。夫を想う情、切なるものあって、せめて骨の一片でもと、都の空に心はやりながら家臣数名と愛犬国照を連れて秘かに土佐をしのび出て八坂八浜の荒磯に悩まされながら憂き旅を重ねるうち、悲観のあまり目を泣きつぶし後世山北麓までたどりついたのは断草離々たる旧9月15日であった。
不運にもここで利欲の者のために銃殺され、あえない最期をとげたのであった。

元和3年、里人達その心根を哀れに思い、はるか雲煙の彼方、土佐の見える山頂に移し奉ったのである。つまり現在、目の神様として祀られている顕節姫命である。遺骨をご神体とした神社も異例であるが、伝承によると、その時お顔を土佐の方にと、横向きに埋め奉ったという。この里の人達の熱い心遣いが伝わってくるようである。
今も360余年の昔を語るごとく峰吹く松風の音のみがしょうしょうとむせび泣くごとくである。
犬の墓は境内の片隅で御霊を守護するごとくひっそりと眠っている。

例大祭 旧3月15日 旧9月15日
県内、県外から眼病全快、家内安全を祈願する多数の参拝者がある。特に女人の参拝者が多い。

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